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イチノセヒデユキ
イチノセヒデユキ
1988年生。長崎で生まれ育つ。現在大学生で情報メディアを学びながら、自分の視点を大事にした番組づくりを心がける「hideyukitv」を立ち上げ、番組を制作中。できればスポンサーほしい(がめつくてすみません)
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長崎キャッツストリート -龍馬とネコのまち「寺町・伊良林」-
 長崎の町を歩きながらそこで暮らすネコと町の魅力を発見する番組です。今回の舞台は大河ドラマでも話題の亀山社中がある寺町・伊良林です。


メディア情報(2011/2/8更新)
□NHK長崎主催の映像コンテスト「ヤバくね!?NHK~高校・大学映像コンテスト2011~」に大学代表で参加しました。2月18日(金)24:45~ NHK総合で前編・後編まとめて再放送されます。 くわしくはこちら
おかげさまで僕らの大学の作品「だせぇ NHK -もしも、NHKだけになったら-」は4位入賞となり、NHK長崎総合テレビで10本放映されることとなりました。
<作品の放映日程>
2/16(水) 24:59~、2/19(土) 23:59~

□【車載動画】長崎・浦上川線上り(下の川橋交差点→稲佐橋交差点) You Tubeで公開開始
□長崎キャッツストリート 第五・六夜編集中
□NAS Radio Stream
(毎週土曜よる10時30分~ 長崎市民FM/Ust) ミキサー・出演

2015年08月10日

8.9 被爆70年 思うこと

背後のテレビで東アジアカップ最終戦・日本対中国を流しつつ、ワードパッドで書いていたら日付が変わってしまった。ご無沙汰振りの記事投稿します。ヒデユキです。長文です。

1945年8月9日、6日の広島に続いて、僕が生まれ暮らすこの長崎にも一発の原子爆弾が落とされた。太陽にも例えられる熱線と巨大台風を凌ぐ爆風、そして目に見えない放射線が、この街に暮らす人びとを襲った。その年の内に7万4000人が亡くなり、7万5000人が傷ついた。

あれから70年が経った。あの日を体験した人たちの平均年齢はついに80歳を超えたという。被爆当時は子どもだった人たちが多い。そう遠くはない未来、被爆者は皆この世からいなくなってしまう。次の節目の年に体験談を自ら語ることができる方はどれだけにいらっしゃるか…そう思うと、被爆70年目の今年は次世代に直接継承できる多分最後の節目の年であることは間違いない。

実をいうと、僕の母方のおじいちゃんとおばあちゃんも被爆者だった――
「だった」と過去形になるのは、おじいちゃんは僕が生まれる数年前にすでに他界していたから。一方、おばあちゃんは昨年5月に肝臓ガン治療に伴う脳梗塞で亡くなった。享年80歳。おじいちゃんに先立たれた後も一人で暮らし、ちょっと頑固だけれどやさしいおばあちゃんだった。初孫だった僕はばあちゃんに相当可愛がられたし、たくさん世話をかけまくった。幼いころは両親とも仕事のときは家にやってきて僕と弟の子守りをしてくれたし、学生時代には自宅からおばあちゃん家まで歩いても苦にならない距離だったので、月に何度かのペースでおばあちゃん家に(勝手に)遊びにいくこともあってその都度世話になった。その恩返しが全然できないまま旅立たせてしまった後悔の念がいまも残ってる。

そんな会う頻度が比較的多かったおばあちゃん(そして、おじいちゃん)の被爆体験を聞く機会は、以外に両手で数えられる程度だったりする。亡くなってからばあちゃんも被爆していたことを知った・・・わけじゃない。小学生になるころには平和教育で原爆をしっかり知り、母親からか「長崎のおじいちゃんとおばあちゃんも原爆に遭ったんだよ」とは聞いてはいたのだ。でも会うことが多すぎて、子ども心にどこかで(いつでも聞ける)と思っていたのかもしれない。

初めてしっかり被爆体験を聞いたのは覚えている限り、1999年・小学5年生のころだったと思う。今考えると、その前の年、小浜で暮らしていた父方の祖母を亡くした。(いつでも聞ける)という考えに危機意識が生じたのかもしれない。けれども、じゃあスッと「ばあちゃん、原爆の話して」と僕は聞けなかった。話を聞くきっかけとなったのは小学校の委員会活動だった。そのころ僕は、放送委員会に所属していた。前の年にはアニメ「ちびまる子ちゃん」のワンエピソードかの影響で壁新聞をクラスメイトと不定期で作ったりしていて、なんとなくメディアに興味を持ち始めていて、5・6年生が担当する委員会活動で放送委員会も選んだのもその流れからだった。話を戻すと、夏の時期になると放送委員会は原爆や平和についての校内放送を行うことになっていた(今は知らない)、大体がお昼の校内放送に合唱曲を流すとか、なにか10分程度ビデオを流すとかだったと思う。担当の先生と5・6年が集まっての活動の時間でなんやかんやあって「僕のおばあちゃんに被爆体験を語ってもらおう」となった。僕もこれまでしっかり聞いたことがない(はずだ)し、学校のビデオカメラ使うチャンスだ!(クズ)ということで早速オファーしたのだ。おばあちゃんは快く引き受けてくれ・・・なかった。最近の報道でも、あの日のことを思い出すと辛くなるので回りの若い世代に語らない方が多くいらっしゃるが、僕のおばあちゃんもそうだったのだ。加えて、最終的に数百名の児童の前に本人は直接いなくとも晒されるのであるから無理もない。生まれてから11年間接した中で一番拒否反応を示したと思う。でもしばらくしてOKをもらった。経緯はわからない。もしかしたら母親が説き伏せたのかもしれないし、かわいい(自分で言うのが恥ずかしい)孫がどうしてもというならと思ったのかもしれない。日にちを決めて、インタビュアーとして僕と撮影スタッフとして友人数人でおばあちゃんの家で収録した。時間的には10分~15分くらいだったと思う。おばあちゃんは収録直前まで着替えやメイクをしていたのを覚えている。おしゃれさんだったのだ。被爆体験のビデオは編集なしで無事、校内放送で流した。反響は・・・記憶にないということは・・・。そして収録テープも僕の手元にはない(はず)、運がよければいまも小学校の放送室の棚に65歳ごろのおばあちゃんが映るVHS-Cがあるかもしれない・・・が多分中身も確認せずに処分されているかもしれない。

次にしっかり聞いたと記憶するのは、これまたメディアがらみである。高校時代、長崎市民エフエムというコミュニティ放送局で週一30分の生放送のラジオ番組をさせていただいていたのだが、長崎原爆の日の前後の週は、その関連テーマで番組を作ろうとなっていた。そこで「おばあちゃんに出てもらおう」と安直な考えが出たのだ。オファーするとまたも拒否反応、しかし「前とちがって、顔は出ないよ」と多分それが問題じゃないと僕自身でも突っめる説得をすると、「喋ることは前みたいに抵抗はなかけど、生放送でしょ?録音じゃだめと?」と72歳になったばあちゃんは変化球を出してきた。僕もなぜ生放送で駅前のスタジオまでおばあちゃんを連れ込んで生で喋らせようとしたのか、いまになってはわからないのだけれど、とにかく生放送にこだわった(クズ)のだ。そこで、喋る内容・段取りを事前に取り決め、その通りで生放送に臨んだ。互いに原稿を意識的に普通っぽく話そうとして逆に話し方がぎこちなくなったを除けば、問題なくおばあちゃんの被爆体験再び聞くことができ放送した。このときは、次の番組の人から「貴重な話を聞けてよかった」と僕とばあちゃんに感想をもらったのを覚えている。しかし、この時の音声や原稿の記録が今現在見当たらない。当時、基本的にMDに同時録音していたのだけれど、記録管理がしっかりできていなかったので、録音したけれどMDがどこかに消えたのか、録音自体失敗していたのか今現在まだ確認ができていないのだ。(本当にクズ)

さてここまで長々と書いた割に、おばあちゃんの被爆体験の話を書いていなかった。本当はそれら資料を基に書くべきなのだが・・・。完全に僕のクズミスである。記憶を頼りにざっくりと書く。

当時、11歳・国民学校6年だったおばあちゃんは、生まれて間もない妹と三菱造船所などが建ち並ぶ爆心地から南南西に約3.2kmの長崎市水の浦に疎開していた。原爆が炸裂した11時2分、おばあちゃんと妹は防空壕の中で遊んでいたという。閃光と爆発音が聞こえ外に出てみると、それまで見なれていた長崎の風景が一変したのに気づく。住んでいた山里・高尾あたりもダメそうだと判断し、妹を背負い、水の浦から直線距離で17km・爆心地からでも16kmある黒崎の親戚を目指す。浦上川西岸沿いを北上すると道沿いには馬が焼け死に、川には遺体が流れ、下大橋などには水を求めて亡くなった多くの遺体が折り重なっているのを見たという。ただおばあちゃんはそれらを恐怖から直視はできなかったと聞く。それよりも妹と一緒に早くこの街から離れなければと、大橋まで行くと現在の国道206号線に出て、通れる道をとにかく突き進んだという。その後無事に黒崎の親戚の家に辿り着き、終戦後もしばらくはそこで暮らしたという。都市部では配給制で戦後闇市が云々であったが、親戚が農業を営んでいたので、食べるのには問題なかったという。戦後、電電公社に入社。国鉄職員だったおじいちゃんとお見合いで結婚。戦後10年になろうとする頃に僕の母親が誕生する。

・・・・とこんな感じだ。

もうちょっと細かい描写を語ってもらったのはずだが、覚えているのはこんな感じだ。(いつでも聞ける)という思いが結局亡くなる直前まで僕の中にあったのは間違いない。おばあちゃんのガンが発覚したのが2年前の夏だった。ちょうど長崎原爆の日の後、かかりつけ医のところで健診を受けたところ血液検査の数値に異変があって、原爆病院で検査入院すると、肝臓ガンだった。心臓や腰が悪く、そっちばかり気を配りすぎて、悪化しないと症状がでない肝臓は僕らはもちろん、ばあちゃんもノーマークだった。そして最悪だったのがステージ4。担当医は家族に意見を聞いたうえでおばあちゃん本人にはステージ2だと話して、抗がん剤での投薬治療での延命治療を行うことになった。聞きたいけれど、聞けなかった。原爆の話だけじゃなく、おばあちゃんが若かった頃の話を。いつでも聞けると思って深い話をあまりしてこなかったのだ。ガンが発覚する直前の8月9日の夜、おばあちゃん家でテレビを見ながら、数回のうちに入る被爆体験を聞き、おばあちゃんがおじいちゃんとの馴れ初めを話し出した。恋愛結婚だと思いこんでいたが先に書いたようにおじいちゃんとはお見合い結婚だったのだ。全然ばあちゃんのことを知らない。検診が終わって「問題なし、心臓と腰に注意してね」って言われたら、どんどん話を聞こうと思ったら。想像していなかった病状で脆くもその計画は消えた。ガンが発覚しておばあちゃん本人は治ると信じてるのに、孫がどんどん昔の話を聞いてくるようになれば、自分の病状に疑いを持つのではないかと思い自粛してしまった。余命半年~1,2年と言われていたが、結局9ヶ月の闘病生活の末、治療薬の副作用による脳梗塞で呼吸器系の神経がダメになり亡くなった。
終盤の2ヶ月は僕より、母親が大変だったと思う。急に老けてしまったし、ボケが一気にひどくなり、体がマヒし・・・。これならステージ2ではなく4だとおばあちゃん本人に話して、医療費はかかるけれど、鹿児島にあるという放射線治療専門の病院に望みをかけるべきだったかとも思った(ただ、ばあちゃんのガンの形状だとその病院の受け入れ条件的に合わず治療自体できずただ末期ガンだという現実だけを知らされるだけの可能性があったのでどれが正解というものでもないとも思う)

おばあちゃんが肝臓ガンになったのが原爆が直接原因だったのか、先の被爆体験やそれ以外のことを総合すると、0ではないかもしれないが100ではないと感じる。もともとおばあちゃんの家計は肝臓が弱いらしいのと、甘いものが好きでそっちのほうが主要因だったのかもしれない。

結局、長々と文章を書いてなにを言いたいのかというと、長崎に限らずこれを読んだ若い人で、70歳以上のおじいちゃんおばあちゃん(ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんでも)がいるなら元気なうちに「戦争体験談」を聞いたほうが絶対いい。そしてその時にはペーパーでもボイスレコーダーでもいいので記録しておくこと。死んでからではもう終わりなのだ。ほんと。

なんで聞くべきなのか、それはその人たちが生きていたからこそ、自分がいまいるから。当たり前だけれど重要だと思うんだよね。僕のおばあちゃんの被爆体験から次のことが考えられる。

① もしも原爆炸裂時、防空壕にいなかったら
おばあちゃんは、妹ともに防空壕にいた。より詳しく言うと、爆風をもろに受けない位置(南よりか?)に出入り口があったという。つまり、熱線や爆風からはほぼ逃れ、放射線も外で浴びるよりは軽減できたのだ。もしこれが外であれば、即死はしないにしても、外傷やのちに原爆症に苦しんでいたかもしれない。しかし、なぜあのとき防空壕で遊んでいたのか、実はおばあちゃんは「原爆よりもその数日前にあった造船所周辺を対象とした米軍による小規模空襲のほうが恐ろしかった」とも語っていた。この空襲時、おばあちゃんたちは防空壕に避難していたので何を逃れたが、逃げ遅れた顔なじみの隣人が犠牲になったという。そのため、奇襲に備え、家より防空壕にいたほうがいいと疎開先の人と決めたとかだったと思う。もしも原爆前の空襲でやられていたら、空襲がなく危機意識がなく外に出ていたら、おばあちゃんと妹はどうなっていただろう。

② もしも被爆後、長崎市内に長時間とどまっていたら
時間についての情報がいま手元にないので記憶する限り、おばあちゃんは妹とともにその日の昼間には黒崎に向かっていったはずである。その際も、爆心地の松山町は通らず(大人に「松山は危険だ」と言われただったか)市街地内をほぼ休まず北上したと思われる。のち調査で、投下時は別のところにいて、その後、家族などを探しに入市した人びとが重い放射線障害になったということを聞くと。もし山里・高尾の自宅に寄ったりしていたら、重い放射線障害をわずらっていた可能性も高い。

70年前に敗戦を迎えた戦争で日本では300万人の人びとが死んでるという。ある人は縁もゆかりもない戦場で、ある人は自分が生活する場所で突然亡くなったのだ。家族によっては一家全員が死んでしまってる。生きていれば、僕らの世代にその家族の誰かの孫やひ孫なんかがいて知り合って友達になっていたのかもしれないのだ。生きのびている人のほうがもちろん多いけれど、亡くなっていた可能性だって0ではなかったのだ。田舎などの人ならもしかしたら戦争とはほとんど無関係に暮らせたって人もいるかもしれない。けれど両親や兄弟、親戚、友人など自分ではない身近な人を失っているかもしれない。もしかしたら生き延びたおじいちゃんおばあちゃんがそっちに転がり落ちていた可能性だってあったのだ。そうなれば、自分は、そして両親(もしかしたらおじいちゃん・おばあちゃん)は生まれていなかったかもしれないのだ。加えて、戦後どうやって生きてきたのかディープな話も聞けたらと思う。まあ僕の家が浅い話しかしていないだけで、これを読んでいる人はしっかり話せているかもしれないけれど。聞くことでなにかの指針になるかもしれない。もしかしたら反面教師になるかもしれないけれど。

僕のおじいちゃんに至っては、僕が生まれる前に亡くなっているし、おじいちゃんも母親らに語ったことは一度もなかったらしい。知っているのは背中の片側かにケロイドがあったこととおばあちゃん伝いに長崎市内の兵器工場に徴収されていて被爆したということくらいらしい(仮に働いていた工場が大橋工場なら2,273人の方が亡くなった場所で負傷した5,679人のうちの一名として生き延びたことになるが、これは想像の域の話だ)。周りの人になにも語らず亡くなっている人も多いと聞くが、おじいちゃんもその一人に入ることになる。本人に詳しく聞きたくても聞くことができないのだ。

そして、この時期だからこそ聞きやすいと思う。もしかしたら、おじいちゃんやおばあちゃんも(語るべきか)と思っているかもしれない。孫(ひ孫)からの(丁寧な)お願いで語ってくれる可能性も普段より高くなっているかもしれない。

次の被爆・戦後80年まではあっという間に過ぎるだろう。そのあいだ対世界のなかで日本はどんな道を進んでいくのか、自分もその当事者になってきているんだけれど、わからない。けれど、まず各々があの戦争のことを自分の家族レベルでのできごとを知ることでコレはアウトだろ、っていう軸というか最低ラインみたいなのはできるんじゃないだろうか。

ということで、金にもならないことをつらつらと書き連ねてしまった。
長崎のおばあちゃん、安らかに。おじいちゃんも、あ、小浜のおじいちゃん、おばあちゃんも、もう亡くなられたみなさん、どうぞ安らかにお眠りください。ドウシテコンナシメカタニナッタ!(終)

タグ :長崎原爆

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Posted by イチノセヒデユキ at 02:01│Comments(0)雑記長崎
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